1915年(大正4年)12月/北海道苫前村 六線沢

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)という名前を、聞いたことがあるでしょうか。いまから111年前の冬、北海道の小さな村に一頭のヒグマがやってきて、五日後、その村には誰もいなくなっていました。
北海道の日本海側に、苫前(とままえ)という町があります。留萌よりさらに北で、冬になると海から吹きつける雪であたり一面が真っ白になる土地です。
ここに人が入りはじめたのは明治のなかばすぎのこと。掘っ建て小屋に住み、粗末な服を着て、腹をすかせながらマサカリで原始林を切り倒し、一鍬ずつ畑にしていく。とても豊かとは言えない暮らしぶりでした。
その苫前のさらに奥、六線沢(ろくせんさわ)という沢には、15軒の家が暮らしていました。家と家のあいだは森で隔てられていて、冬になると雪に埋もれ、行き来もほとんどできなくなります。もちろん電話もありません。助けを呼びたければ、雪をかき分けて自分の足で走るしかない、そんな場所でした。
異変はその年の秋から始まっていました。畑のトウモロコシが何度も食い荒らされ、犯人はヒグマだとわかります。困り果てた村人たちは猟師に駆除を頼み、猟師は撃ちましたが、仕留めそこねてしまいました。ヒグマはそのまま山へ消えていきます。このとき仕留められていたらと、どうしても考えてしまいます。
12月のヒグマは、ふつう穴の中で冬眠しています。ところが何かの理由で眠りそこねる個体がいて、これを「穴持たず」と呼びます。眠れず、食べるものもなく、腹をすかせたまま雪の山をさまよい歩くのです。
その冬、六線沢に現れたのがまさにそれでした。体長2.7メートル、体重380キロ。金色の毛が混じった黒褐色の、7〜8歳のオスです。2.7メートルは大人が二人縦に寝そべったくらいの長さ、380キロは大人五、六人ぶんの重さにあたります。それが腹をすかせて、人の家のすぐそばを雪の中を歩いていました。

その日、ヒグマは一軒の家に押し入りました。家にいたのは臨月の女性と幼い子どもで、二人とも助かりませんでした。
村じゅうが震え上がりますが、逃げ場所はありません。雪で道は塞がり、いちばん近い村までは遠く、日が落ちれば外は真っ暗です。そこで村人たちは、一軒の家に集まることにしました。みんなで固まっていれば大丈夫だろう、という判断です。
ところがこの判断が、翌日、最悪の形で裏目に出ることになります。
翌日の夜、亡くなった二人のために通夜が開かれていました。そこへヒグマがもう一度現れ、家の中は悲鳴と怒号に包まれます。この家の人は全員、外へ飛び出して逃げ切ることができました。
問題はそのあとでした。獲物に逃げられたヒグマはかえって興奮し、すぐ近くの別の家へ向かいます。そこには女性と子どもを中心に九人がいました。前の日に「みんなで集まろう」と決めた、まさにその家です。
ヒグマは戸を打ち破って家の中へなだれ込み、囲炉裏を飛び越え、大鍋をひっくり返し、焚き火を蹴散らしました。逃げ場はなく、九人のうち五人が殺されてしまいます。
二日間で亡くなった人は7人、重傷を負った人が3人。そのすべてが女性と子どもでした。
生き残った人たちは家も畑も捨てて沢を下りていき、15軒あった村は数日で無人になりました。
警察が動き、住民が討伐隊を組み、やがて陸軍の部隊まで出動します。最終的には延べ六百人、猟犬も加わりました。それでもヒグマは捕まりません。深い雪、見通しの利かない森。相手はたった一頭でしたが、この山を知り尽くしていて、人数を増やせば見つかるという相手ではなかったのです。
そのあいだも、ヒグマはまだそのあたりに潜んでいました。

この騒ぎは、となりの鬼鹿(おにしか、当時の鬼鹿村・いまの小平町)にも届いていました。そこに、羆撃ちの名人として知られた老いた猟師がいます。報せを聞くと、六線沢へ駆けつけました。
十四日、山では大がかりな捜索が続いていましたが、この男は討伐隊とは別の道から、たった一人で山へ入っていきます。理由は残っていませんが、大勢で歩けば音が出て熊が逃げてしまう、一人のほうが見つけられると考えたのかもしれません。
そして、見つけます。頂上近く、ミズナラの大木のそばでヒグマは体を休めていました。距離はおよそ二百メートル。男は二十メートルほどまで距離を詰め、ハルニレの木に身を寄せて狙いを定めます。
一発目は心臓の近くに命中しましたが、それでもヒグマは立ち上がり、男をにらみました。二発目が頭を貫き、午前十時、7人を殺したヒグマはそこで息絶えました。
その瞬間、空が急に暗くなり、激しい吹雪になって木々が次々になぎ倒されたといいます。仕留めたヒグマを橇に載せ、村へ運び出している最中のことでした。人々は「クマ嵐だ、クマを仕留めた後には強い風が吹き荒れるぞ」と叫んだといいます。
クマ嵐(羆嵐)は、北海道の猟師たちに伝わる言い伝えです。大物のヒグマを仕留めたあとには決まって荒れた風が吹く、と言われてきました。祟りというほどではなく、山の神のものを一頭いただいた、その帳尻が合わされる ―― そんな感覚だったのかもしれません。
実際、12月の日本海側で吹雪が来るのは珍しいことではありません。それでもこの日の風は、村の人たちの記憶に強く残りました。
のちに作家の吉村昭が、この事件を題材にした小説『羆嵐(くまあらし)』を書いています。題名は、このとき吹いた風から取られたものです。
こうして、五日間が終わりました。
六線沢に戻った人もいましたが、一人、また一人と去っていき、やがて誰もいなくなりました。畑は森に還っていきます。
1977年、三渓神社の境内に熊害慰霊碑が建てられました。建てたのは、事件のとき少年だった地元の男性です。犠牲者を弔うために熊を撃ちつづけ、目標の百頭を達成するまでに四十数年かかったといいます。少年が老人になるまでの時間を、その人はまるごとこの事件に使ったことになります。
1990年、事件から75年目に、現場の近くへ「三毛別羆事件復元地」がつくられました。当時の小屋と、家に襲いかかろうとするヒグマの像があります。古丹別の市街から南へ約16キロ、この道は「ベアーロード」と呼ばれています。
5月上旬から10月末まで、無料で見学できます。ただし夜は行かないでください。車中泊も禁止されています。森に囲まれた薄暗い場所で、ここはいまもヒグマの生息域のただ中だからです。
北海道が人身事故の集計を取りはじめたのは1962年。それから今日までに、54人もの方がヒグマに襲われて亡くなっています。三毛別の7人は、その数にすら入っていません。集計よりずっと前の出来事だからです。
ヒグマは、いまもそこにいます。
読み物として、多少の脚色をしています。日付・場所・人数・経過は、下の出典で確認できる事実です。ただし「村じゅうが震え上がりました」「そう考えたのかもしれません」といった心の動きや情景は、記録に残っていないところを筆者が補って書きました。事件の流れをつかんでもらうことを優先しています。正確な記述だけを確認したい方は、出典の一次資料を直接ご覧ください。
秋にトウモロコシが荒らされ、猟師が仕留めそこねたという話は、後年まとめられた記録によるものです。苫前町の公表資料には出てきません。
「クマ嵐」の場面は創作ではありません。仕留めた直後に吹雪になったことも、人々が叫んだという言葉も、苫前町が公式サイトの「三毛別ヒグマ事件の概要」に書き残しているものです。
氏名は出していません。資料には被害者の氏名が残っていますが、本サイトは過去の事案でも氏名を出しません。ヒグマを射殺した猟師についても、名を伏せています。
ヒグマの体重は380キロとしました。苫前町の公表による数字です。340キロとする資料もあり、一つに定まってはいません。
小説・映像作品にしかない描写は使っていません。この事件は吉村昭『羆嵐』をはじめ多くの作品の題材になり、木村盛武『慟哭の谷』も長く読まれています。ただしそれらは作品であって一次記録ではないため、公的資料と報道で確認できる範囲を土台にしました。
画像はイメージです。当時の写真ではなく、事件の再現でもありません。
亡くなった人にも、生き残った人にも、ご遺族がいます。地元の方もいます。面白がって書いたつもりはありません。